第9話 オカアチャンと山に行きたい!
結婚した次の年の五月連休に散々なヨット旅行をして、でも懲りずさらにその一年後、女房も山党にすべく革の登山靴を入手し、雪の穂高に連れ出す算段をした。
ところが女房は登山靴をぶら下げただけで「重い!私やっばり留守番するわ」と言い出した。
ここでいつものように、男ばかりの山行となった。しかし新婚の女房を、連れてくると言ってたので、格好をつけようとしたKは茶道具を用意するありさまだ。山で茶をたてて、もてなしてくれるつもりだったのだ。
かくて、うすよごれた我々男だけの集団は、穂高涸沢へと向かうのだった。ところが明神池の近くで、もっとうすよごれた一団に、ぱったり出会った。町の山岳会と槍が岳へ入った会社の山仲間のKチャンだ。
彼らは登頂を終えて下山中なのだ。その彼は、俺とあった最初のあいさつが、おはよう、でもこんにちわ、でもなく、「おお!何か食うものねえか!」だった。もちろんこちらは入山したばかり、食うものはある。
そこで彼はとことこと、涸沢までついてきた。すなわち居候である。涸沢でテントを張り終えた頃、槍からの縦走メンバーからトランシーバーで連絡がとれ、合流した。
その頃も帰る時重いからと、ゴミ捨て場に色々捨てて帰る人もいた。ここでトリス(安いウイスキー)の大ビンを拾った。(若者に人気でトリスを飲んでハワイへ行こう)なんてコマーシャルが当時あった。
まだわずかしか飲んでいない。小便でないかと少し嘗めてみたが、まさしくウイスキー。その夜の涸沢は酒盛りとなった。
入山初日の疲れと空気の薄い山では、たちまち酔っ払う。山男は食い物に意地が汚い。いつものように飲み食いの早い俺は、一人でぐいぐい飲んだのだろう。
もちろん他人に酌などしない。皆は飲み食いの早い俺のことを職人ではなく食人と呼んでいたのだ。
次の日、起きたら大地は揺れ動き、平らな地平線すら傾いているではないか。つまり二日酔いである。とても山に登れる状態ではない。皆にそこいらにちょっと行ってこいと言って、テントで寝ていた。
この日Kチャンは前穂高の八ッ峰キレットヘ行ったが、一枚岩でボルトでもなければ登れなく進退極まった、と言っていた。あそこでそんな所は無いはず、どこか間違って入ってしまったのだ。
Mは、雪崩に流される始末、さんざんな日であった。
俺はこの時から、山へ酒を持っていくことを止めた。
そして一ヶ月後、六月のアメリカ出張から帰ってから、女房に登山靴が重いと、五月の山行をふられた俺は軽いキャラバンシューズを女房に買ってやり、夏の南アルプスヘ連れていくことにした。
折からの長い夏休みに一部の部員は、さらに有給休暇を取り、南の端からの縦走で三伏峠での合流である。
山の上からのトランシーバーが良くとどき、全山縦走隊と鹿塩温泉で連絡が取れた。
予定通りの行動でほっ、とした。バナナが食いたい、とか砂糖が無いとか言ってくる。
バナナはここでは買えないが縦走隊に蟻男という異名を持つNがいることを思いだし、砂糖をここで買足し、多く持っていく。
Nは、コーヒー、紅茶、ミルクと何でも砂糖を人の三、四倍多く入れて飲む男で例えば、コップにコーヒー粉、砂糖をコップに入れるとこれだけで半分ぐらいになる。そしてドロドロした甘いのを何杯も飲む。
俺達は登山道をゆっくり登って行くと縦走隊も待ちかねたか空身で下りてきて合流し、荷役をしてくれる。本当はバナナが食いたかったのかもしれないが、それはおあずけ。
三伏峠でテントを張り合流の喜びを分かち合う。次の日は三伏峠から塩見岳への上りだ。曇っていた空は塩見岳山頂でとうとう雨になった。本日の予定は熊の平だ。
風はだんだん強くなり前からの雨は吹き上がるようにたたきつけ、しびれるような冷たさだ。塩見岳から二時間ぐらい歩いた所で俺は「今日は、ここで幕営する」と皆に言った。
リーダーの言うことに従う皆も、あと二時間弱で理想的キャンプ地の熊の平へ着けるのに、と不平を言った。
ここは傾斜地でテントを張るのには適さない。しかも水もない。しかし前方からこれだけ冷たい雨にたたかれたら無理と判断したのだ。
ヤッケ(雨具)の顔の部分から雨水が入り全身が濡れる。しかも風が前からだと歩くのにブレーキがかかる。同し条件でも風が後ろからなら歩行を助ける形になるのだが。
はたしてテントを張ったら山に慣れていない女房がバタリと倒れた。もちろん全く食べられない。ポリタンにお湯を入れ女房の体を温め、まんじりともしない夜をあかした。
次の日、天気は晴れたが女房は立てない。もちろん歩けない。前日無理をして歩かせたらどうなったかと、ゾッとした。
若い三人で交代に女房を担いでくれて、無事に熊の平に着いた。
背負われてきた女房をみた小屋の管理人は、自分たちの部屋を明けてくれた。三畳ほどのその部屋は俺と女房の個室となった。そして管埋人は登山客と大部屋に寝た。
驚いたことに小屋の管理人は生卵をもっていた。熊の平小屋はもちろん食事など出さない本当の素泊まり小屋だ。当時はどこから入山してもここまで丸二日かかる。
小屋の人達は病人の女房のために自分たちの卵を分けてくれた。さっそく卵入りオカユを作って食べさした。
次の日、空はさわやかに晴れわたり、風もない穏やかな朝をむかえた。
皆の温かい助けをかりて女房は歩けるようになった。
やっと北岳山頂にたどり着いた女房は、とうとうやったのね!と、感激しながら山頂にある北岳と書いてある日本で二番目に高い導標をなでていた。
ところでこの後、つづけて二児をもうけ、結婚して五年の歳月が、あっと言うまにすぎた。ここでチャレンジ精神で手を広げすぎた会社はいきづまり、大手のH社に合併された。
そして量産工場の仙台ヘ設計部門は移された。
しかし現場の指導は便利だが、最新技術を持った協力工場との連携もうまく行かず、俺は心労から病にたおれ病院でもんもんの半年を送った。
今までが順調に行き過ぎてたのだ。風邪をこじらせ腎臓病となり、無理がきかずハードな設計から外してもらい、スタッフとなった。
しかし、仕事バカの俺、目標が無いと駄目。何かないか、ふたたび佐渡ケ島大探険(少年時代自分たちだけで行ったキャンプ)の思い出がよみがえった。そして次のターゲットを旅に合わせた。
俺の目標としているのは旅行ではなく、旅なのだ。旅行と旅とはどこが違うって?
俺もはっきりとしたことは言えないが旅行は観光、ショッピングなど亨楽的なアソビ要素が多い、そしてグルメ、高級ホテルなどが思い浮かぶ。
かつて旅の大先輩、松尾芭蕉はその当時は大変だった旅に後半の人生をついやしている。
奥の細道では、「のみしらみ馬の尿する枕もと……」というような俳句にあるように、宿も汚く、ごろ寝するだけ。
「さみだれを集めて早し最上川」
「荒海や佐渡によこたう天の川」
など厳しい自然を前にして、詩のインスピレーションがわき上がるのだ。荒涼たる自然の中に自分を置き、生きているという実感を感じたのだろう。
偉太なる芭蕉と比べるべきでもないが、観光地でなく、荒涼たる自然、困難な旅の感動はよくわかる。
だから困難さ、ハプニングのある一人旅が俺は好きなのだ。人の後にゾロゾロついて行き、ただ観光地をめぐる旅行は得るところが少ないと俺は思う。
目標をきめ、一生懸命に養生したので体力も回復、そして自由な時間を得るために脱サラしてペンションを始めたのだ。しかし、ここまで来るには発病から十年の歳月がかかった。
ペンションは無理しないように土、日曜だけ営業。
稼ぎは悪い。でも理解あるオカアチャン、風来坊の俺に貧乏な旅だが一か月位海外へ出られる旅の金をめぐんでくれるのだ。それもペンションの暇な6月、11月の2回も。
ところでなぜ旅は海外なのかって?それは未知との遭遇のチャンスは海外の旅で多いからです。
話が湿っぽくなったので旅の話を再開しましょう。