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もみの木山荘オーナーの自分史。イジメられっ子からガキ大将へ。あだ名はガキ大将アク(悪)

もみの木山荘オーナーの失敗談「トホホ物語」。旅がやりたくて脱サラ、ど素人がペンション経営 もみの木山荘作るまでの・・・!

宮城蔵王貸切ぺンション「もみの木山荘」オーナーの真実の話を掲載しています。

もみの木山荘オーナーの写真館。山と高嶺の花、旅のエッセイ写真集です。

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トホホ物語

トホホ物語

 第2話 ぺンション作るまで
[ No. 2 ]

かってウサギ 小屋と言う流行語があった。

外国人の目で見て日本の家の小さな事を言ったらしいが、日本ではサラリ‐マンは一生かかっても、せいぜい狭い家が一軒建てられれば立派と言う自嘲めいた意味も込められていた。
何度かの出張でアメリカ、カナダの大きな家を見ていた俺はこんな言葉を情けなく思い、何だか大きい家を建てたくなった。

以前老後に別荘でもと思って蔵王山中に土地を買っていた。「そうだ!ここにデカイ家を建ててやろう」と思った

別荘にしては大き過ぎる家、ただ漠然と将来住むつもりにと、今何に使うか目的もあまりはっきりしない家、ただ自分でできる力の及ぶ限り最大の家にチャレンジした。

こんなありさまでがむしゃらに走り始めた。
友人が気兼ね無く泊まりに来てくれるようにするには宿屋、ペンションのようなのが良いのではないかと漠然と考えて設計に入った。

平均的なペンションはアベックをメインに考えたレイアウトで廊下をはさんで二人部屋が続く。まあビジネスホテルみたいなものだ。

しかし自分のちからでチャレンジする最大の家だ。将来住みたいし、夢も盛り込みたい。
そして山小屋風のロフトや、屋根裏部屋などのあるペンションとしては変則的な、百坪の家は着工された。

昭和五十九年の五月であった。
さすがにチヨッキン(貯金)カニチャン女房の畜財だけではどうにもならず銀行からも多額の借金をした。

この山小屋を作るとき、多くの山の友人からもカンバがあった。
資金不足の折、お返しもせずにありがたく使わせていただいた。

今度泊まりに来た時にただで泊めればよいくらいのつもりであったが、ところが泊まりに来たときも、きっちりと宿泊料を払ってくれた。
お金を辞退しても、こんど来にくくなるからと、どうしても金をおいていく。

山の友人はスペシャルゲストである。休業している平日でも、一人でもペンションをオ‐プンしよう。
かくして、俺の一生一代の仕事?ペンションの建設は五月連休から始まった。業者に木の伐採と跡かたずけ、整地で二百万との見積りにびっくり。

もと工作、手作り大好き少年だった俺だ。自分でやろうと、まず森の木を切り倒すためにチエーンソーを手に入れた。

しかしチェーンソーを使うのは初めてである。そのへんの丸太で切る練習をしてから、初めての木にあいさつをしてチェンソーをいれた。

いつか本で見たように倒したい側にクサビ形に切れ込みを入れる。チェンソーは面白いように切れ、白い木くずを吹き出す。

反対側に切り込みを入れると、ミリミリと木から音が出て、木が傾いてきた。しかし木は教科書通りの倒れ方をせず、とんでもない方向に倒れ、木の先端が電線をかすめた。大地をとうしてドドンと地響きが体に伝わる。

激しく揺れる電線、もう少し道路に近い木を切っていたら間違いなく電線は切れていただろう。三十センチ以上の杉の木だ、倒れるときの迫力はすごい。
危ないところだった。

暗い森の中、木の切ったところは空がぽっかりと穴があいたように見え、まぶしかった。
ところでなぜこのような倒れ方をしたのか色々考えてみた。

よく見ると木は垂直に天に向かって立っていると思っていたが、傾斜地のここでは、わずかに谷側へ傾いている。そして日当たりの良い南側の木の枝が太く育っている。この育ちの良い枝の重みと

谷側への幹の傾きで倒れる方向は決まってくる、と思った。
初めの一本の失敗で、このことが分かって良かった。このまま続けていたら木の下敷きになったかもしれない。

それからは、誰かにロープで引っ張ってもらい思う方向に倒せるようになった。倒した木は枝をナタで切り払い、束ねる。幹は決まった長さに切って運ぶ。

大変な重労働だ。身内の人々が多く来て、手伝ってくれた。
義父の兄も八十才を超える高齢にもかかわらずナタをふるい枝を束ねている。切り株だけはどうにもならずユンボーという重機で堀りとった。

戦車のようなキャタビラをつけた大きな機械が切り株に負けて傾くさまは、すごい迫力だ。
ついでに整地もしてもらい、わずか三十五万円でこの工事は終わった。

工事に着手したむね東京の母に電話し、母も完成を楽しみにしていたが、突然、心筋梗塞で倒れ帰らぬ人となった。

五月二十六日のことであった。工事は一時中止とした。
母の四十九日も過ぎ、工事を再開したのは夏であつた。

基礎工事は、かんかん照りの暑い日差しの中で行なわれ、運転免許を取り立ての女房は車で下界の自宅から冷たい飲物を毎日運ぶので大変だ。

下界からくらべると、ここは涼しい別天地なのだが強い日射の下で労働すると、冷たい飲物が欲しくなる。仕事場は山の中で、店など無い。

そこで冷蔵庫を置こうと近くの電気屋で小型の中古品をただでもらった。
廃品として捨てるつもりで屋外に出ていたものだ。どうせ屋外の工事現場で使うのだからこれで十分だ。

この冷蔵庫はペンションの地下室で飲物専用として十年間立派に働いていくれた。
基礎が出来上がると大工作業にかかる。

この設計は基本的なところは建築士に頼んだが詳細な図面は自分で二十枚も画いた。
このため材料も一点までよく分かり見積りもきっちりと行なっており大工はまったく儲からなかった、とぼやいていた。

工事中も会社を終わってから夜遅く現場に行き図面通りに工事が行なわれているかをチェックした。電気設計しかやってない素人にわかるかって?
それは次のような事があって勉強したのです。

俺は仙台工場勤務になって、或る期間工場の改築の仕事をした事があった。改築の原案を作り図面化し、業者の見積を、本社の経理担当重役のところへ承認をもらうために持っていった。

重役は一通り目を通していたが突然書類を投げ出し「おまえの目は節穴か!めくら印を押して持って来るな」と、怒鳴った。

びっくりしてどこが悪いのですか、と聞いたら、いまベニヤ板は一枚いくらの相場か、鉄材はどういう方式でどんな材料が何トン要るのか等、皆のいる前で大声で怒鳴られ、とても侮しかった。電気しか知らないのだと云う自分の甘えも恥ずかしかった。

そこで建築に詳しい知人に教わり細かく図面化し、個々の材料から積算する方法を学んだ。
このことが本当に役立ったのだ。あとで分かったが怒鳴った重役は大工場を建設したプロとのことであった。

目の回るような忙しい日々が流れ十一月末、とうとうペンションは完成した。そして俺はこのばかデカイ完成したぱかりの家に一人で泊まった。しかしなぜか完成の喜びというものはあまり無く、ぽっかりと心に穴があいたような感じであった。

まだカ‐テンも無い窓から見える外の闇が自分の心のようであった。
計画の段階、そして無我夢中で建設している時が華なのかもしれない。

思えば色々の事情で家が建てられず、狭いところに長く住んでいたためか、衝動的に建てた家なので、ペンション風ではない。変てこりんな、まあ山小屋的な建てものだ。

だから部屋も色々、二人部屋から五人部屋、二段ベット、和室、山小屋風ロフト等だ。
建物には風呂が二つある。一階のは俺の手作りのヒノキ風呂、もう十五年経つのに腐らず水も漏れない

これはペンションを作るとき、大工に頼んだが風呂桶屋ではないし、そんなもの作っても、湯漏れで使い物にならないだろう、と断られた。

ここで俺のチャレンジ心がもえた。それなら自分で作ろう!
そこでヒノキを買って部屋に並べて材料と半年暮らした。よく材料を乾燥させ組み立ててからの狂いを少なくするためだ。

ペンションの完成近くなってから作業開始、超仕上げ砥石で顔が写るぐらいに研ぎすまされたカンナは気持ちの良い音とともに半透明な長いカンナ屑を出す。

ヒノキの芳香がたちこめ、本当に気持ちが良い。こんな楽しい事を金を払って人にやらせるものか!

風呂の構造は板ではなく耐久性を考えて6センチの角材を井桁状に積み上げる。互いの接着はシリコンゴムだ。

出来上がった風呂桶は百キログラムを超え、親戚や近所の若者四、五人が据え付けを手伝ってくれた。大工は湯が漏れないのを不思議がっていた。

ヒノキの風呂桶は家庭用の小さい物でも五十万円位する。三、四人は入れるこの風呂は、もし作ってもらったら大金が必要であろう。自分で作ったので五万円の材料費で済んだ。

でも作った喜びは金にはかえられない。風呂に入るたびに、これは俺が作ったのだ!と云う喜びがジ‐ンとこみあげてくる。

この風呂は一階にある。
しかし一っしかないのだ。二っ作るパワーが無く二階はユニットバスである。

皆さんに入ってもらうため、この風呂は男女別にしていない。だからここで長湯をしていると、女性が入っていようが怒り狂った男性が、風呂のドアを蹴やぶって入って来るかもしれないという、恐ろしい風呂なのだ。長湯の人は二階の風呂にどうぞ。