オーナーによるコンテンツ

もみの木山荘オーナーの自分史。イジメられっ子からガキ大将へ。あだ名はガキ大将アク(悪)

もみの木山荘オーナーの失敗談「トホホ物語」。旅がやりたくて脱サラ、ど素人がペンション経営 もみの木山荘作るまでの・・・!

宮城蔵王貸切ぺンション「もみの木山荘」オーナーの真実の話を掲載しています。

もみの木山荘オーナーの写真館。山と高嶺の花、旅のエッセイ写真集です。

もみの木山荘HPへ

トホホ物語

トホホ物語

 第6話 新婚旅行で大ドジ(新婚旅行、最初の失敗!)
[ No. 6 ]

ところで旅の話だけでは飽きてしまうので自分史から面白い話を、

自分史から。プロポーズ、新婚旅行が仕事をかねてと言うドタバタ記です。失敗だった新婚旅行の次の年(1970年)に旅行やり直しのつもりでのヨット航海旅行が命からがら。

そして懲りずに3年目の企画南アルプス縦走で妻は低体温で遭難一歩手前!アブナイ人生二人三脚のはじまり。

その1 プロポーズ大作戦

当時(昭和40年ころ)有給休暇を半分も取らず流す人も多かった。

しかし休暇はきれいに使いズッコケて山へ行き、首になりかけた事もあったが仕事も趣味と一致し、バンバンやっていたので何時のまにか会社の開発設計のチーフになり、業務用テレビカメラ、産業用テレビ機器をまかされていた。

その頃、俺は女性にあまり関心が無かった。それは女嫌いというのではなく、山、ヨット、スキー、とやることが多すぎただけである。そんなある時、俺は量産工場の仙台工場へ技術指導に行った。ここで俺は電撃のようなシヨックを受けた。

今まで見たことも無いような女性がいたのだ。素朴で清楚な、それでほがらかさは太陽のよう、声もとてもきれいだ。女性に免疫の無い俺は一ぺんにまいってしまった。

何か作戦は無いか!そこで当時まだ珍しかった車(従業員三百人の仙台工場でも三台しかなかった)を使う事に決めて、土曜日、車を取りに東京へ戻った。仙台工場への出張は電車で来ていたのだ。

さっそくドライブにさそった。当時は車も珍しくOKの返事だった。

コースは山形の山寺へ行き、蔵王エコーラインを通って帰るというものだ。一対一で誘うのはテレクサイので、同僚の女の子二人も誘い、一対三という構成で出かけた。

山寺で坂道を登り立石寺への途中、奥の細道芭焦の碑の前に着いた。静けさや岩にしみいるセミのこえというあれの前で俺はプロポーズした。

なんて言ったか忘れたが、たぶんセミの声のように俺の声も岩にしみこんでしまったからであろう。

いいあんばいにその時連れの二女性はいなかった。気をきかしたかな?

俺は強引にも、それから一週間のうちに婚約、結婚の日取りまできめていた。

その2 散々な結婚式

初めての業務用カラーテレビカメラの設計試作で、テンテコまいをしている俺は、仙台の彼女デートもままならない。まして十一月に設定している結婚式の準備など出来る訳がない。そこで本来なら俺のところの東京で行なうべきだが、仙台ですることになった。

これなら全部、まかしておける。新製品の発表会は十一月末、九州にて行なわれる。偶然にも結婚式とはダブらず、その二日後である。

新製品も出来上がり発送すれば、あとはこのカメラをいじった部下の係長が発表会に行く予定であった。

そこで、山の好きな俺は黒四ダム、北アルプスと新婚旅行スケジュールを立てて宿の手配も行なっていたが、ところがどっこい、その係長は俺の結婚式の一週間前、過労で倒れてしまったのだ。

カメラの製作調整はカメラを三脚に乗せ、立ったままで行なう。そこで足に無理が来る。以前から膝があまり良くなかった彼は、ここでダウンしたのだ。

試作品は色々変更個所があり、手作りの所もあるので、これをいじった俺か係長しか分からず、代役は出来ない。ここは俺が行くしかないのだ。

新婚旅行はどうしようか?試作品、結婚式等色々の問題をかかえていた俺はボーとしていたのであろう。あろう事に結婚式の二日前、府中の交差点でノロノロと車を発進させた俺の後から勢いよく発進したトラック野郎に追突された。

大丈夫だという俺を、おまわりさんはパトカーに無理やり乗せ、近くの病院に連れていってくれた。病院ではムチウチということで、首にカゴのようなものを、はめようとする。

そんな物を付けられたら仕事にならない。大騒ぎされるとかえって、なんだか首が痛くなってくる。包帯と湿布でかんべんしてもらった。

このトラック野郎とはその後、会っていない。そんな事をしている暇がなかったのだ。この事故書類は未処理のまま、まだ府中警察署にあるであろう。

二日前、追突された俺は首の痛さも忘れ、前夜遅くまで発表会へ出すカメラのテストを重ね、当日、結婚式の二時間前に羽田~仙台の飛行機で式場にギリギリに滑り込んだ。当時は新幹線もなく、電車では八時間もかかり間に合わないからだ。

首に湿布、包帯のままで式場に出た俺を見て苦笑している人もいた。飛行機は天気が悪ければ飛ばない事もあろうに、よくそんなキワドイことが出来るな!と誰かが怒っていた。キワドクても十四才違いのカップルが、ここで無事誕生した。

ここで嫁さんの父親に新婚旅行など出来る状態でなく、すぐ九州の新製品発表会に行かなけれぱならない事を話した。

ところが父親は「娘が一人で戻ってくるとは縁起でもない、死に別れたか、離婚したときのようだ!一緒に連れていけ」といわれ、とうとう新製品発表会が新婚旅行という事になってしまった。

結婚式が遅かったので、仙台空港発は夜になってしまった。東京の第一夜の宿は、ホテルニューオオタニだったが着いたのが遅く回転レストランで食事なんて思っていたがだめ。部屋にライスカレーをとったが、疲れた妻は吐いてしまった。

次の日、羽田~博多と飛んだが、空港に降り、乗ったタクシーの運転手に行く先を聞かれて、はじめて俺は博多で泊まる所を決めていなかった事に気がついた。飛行中もカメラの事が気になり色々考えていたからである。

俺はハッとしてタクシーの中から前を見ると、電柱に新博多ホテルと広告が書かれていた。博多という大都会の名前、しかも新しい?

俺は大きい新しいホテルをイメージし、新博多ホテルヘと言った。ところが着いてびっくり、新博多ホテルはビジネスホテルで、しかも新製品発表会の九州電力ホールの真ん前。

便利なので他社ライバルがここを宿に取り、ロビーはかなりの人、人、それも仕事に来ているであるから、女っけ、全く無し。バアサンもいない。男、男、男……

いつもの新製品発表会での顔なじみもいる。俺がうら若き女性を連れて来たのでびっくりしている。発表会場で合流した当社福岡営業の人もキョトンとしている。

いきさつを説明するゆとりも無く俺はキーをフロントでもらうと夢中で二階へ上がった。ハズカシイ、ハズカシイ。ところが薄暗い廊下の向こうから、うれしや同じようなペアーが来るではないか。

俺は嬉しくなって急ぎ足で廊下を歩いた。ところが一米位のところで、そのペアーは廊下一ぱいに貼られた鏡の俺の姿であることに気がついた。しかし加速度がついているので急には止れない。

俺は鏡にドカンーとぶつかった。ホテルを広く見せるための小細工の鏡に突進したのだ。

ホテルの廊下は暗く、よっぼどあがっていたのであろう、そんなホテルの仕掛けに気ずかない俺を妻は気が狂ったと思ったそうだ。

これに懲りた俺は次の日、すぐ宿を別な所へ移した。志賀島国民宿舎だ。

ホテルという名はビジネスホテルかもしれない。おれはホテル恐怖症になり、国民宿舎なら大丈夫と思ったからである。平日なのですぐ予約出来た。

俺は仕事を終わり志賀島へと急いだ。しかし遅くなったので島へ渡るポンポン船が終わっていた。

島だから船で行くのかと、そのとき気がついたがもうおそい。俺はよっぽど海へ飛び込み新妻の待っている島へ泳いで行こうかと思ったが、よく聞いてみると、橋がかかっているので回り道になるが行けるとのこと、ああ!よかった。

宿では妻が追加料理として刺身をオーダーしていたが、その日の献立は刺身であり、刺身ずくめの遅い晩飯となった。

新製品発表会も無事に終わり、ここで一週間の休暇をとり、やっと新婚旅行?に行くことにしたせっかくきた九州、ここを回ってやれ!

しかしもうホテルはこりごり、すべて国民宿舎にした。安いし、風景の良い所にある。

それよりなによりビジネスホテルなんていう事は間違ってもない。

ところで宮崎に行った時のことである。宮崎駅から宿ヘタクシーで行くつもりだったが、その電車の車掌が、一つ手前の大隈夏井という駅からすぐだという。夜になり少しでも早く宿に着きたい。俺は車掌に道を聞き、一つ手前の駅でおりた。

ところがこれが電気も無い無人駅。月明りも無く、人家も無く、あたりは真暗であった。

目をこらすと、うっすらと白い帯のようなものが見える。車掌から聞いた道か?と畑の中を最短距離で行く。

突然二米ぐら位の穴(側溝かもしれない)に落ちた。ギャーという悲鳴のあと、胸を強く打った俺は声が出せない。妻は泣き声で大丈夫か、と呼んでいる散々な新婚旅行であった。