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もみの木山荘オーナーの自分史。イジメられっ子からガキ大将へ。あだ名はガキ大将アク(悪)

もみの木山荘オーナーの失敗談「トホホ物語」。旅がやりたくて脱サラ、ど素人がペンション経営 もみの木山荘作るまでの・・・!

宮城蔵王貸切ぺンション「もみの木山荘」オーナーの真実の話を掲載しています。

もみの木山荘オーナーの写真館。山と高嶺の花、旅のエッセイ写真集です。

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オーナー自分史

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 第9話 山から海へ
[ No. 11 ]

忙しく、休日に山へ出かけていた俺はだんだん物足りなくなった。
かって少年時代の佐渡大探検の思い出がキラキラと輝いてよみがえった。

何か冒険をやりたい、しかし日本の山ではそんなところはもう無い。もしあっても、アクロバット的な岩登りは、冒険というよりも手先の技術だけで乗り切る困難さへのチャレンジであり、軽業であり、あまり好きでない。

一口では言えないが、俺の心にある冒険とは、自分としては未知な、困難をともない苦しい、しかし大きな目標へのチャレンジだろうか?

それをやるための、計画、準備、そして実行する、その段階がたまらなくすばらしい。もし俺に目標がないなら羅針盤の無い船のように人生の海をさまようだろう。

そして、いつしか俺は漠然と海の方を見るようになった。
船乗りだったおやじの血筋かも知れない。おやじは俺が入社して数年後、肝臓ガンで倒れた。手術をしたが手遅れで何の治療も出来ない。

末期にはおやじの希望で病院から自宅に引き取ったが、おむつ交換にガイコツのように痩せ衰えた体を見るに耐えられず妹達は近ずかなかった。

俺は一生懸命に看護した。母一人だけではどうしょうもなかったからだ。
全力をつくして頑張った俺は、おやじの死にさいしても、さわやかで涙もでなかった。昭和三十六年早春、親父六十三歳であった。

このおやじの死をきっかけとし、海で冒険出来ないかと考えた。
そうだ!キヤビンが有るクルーザーヨットで海へ出よう。

かたつむりのように宿を背負って港をわたり歩き、時間をかけて色々の国を訪ね、地球を一回り出来ないか!まずアメリカあたりに行って見よう。

さっそく、Sヨットスク‐ルというところに入学し基礎技術をマスターした。
スクールを出たぐらいで、すぐ世界の海ヘ、なんてことは不可能な事は俺でも分かる。

そこでスクールで気の合ったNと、中古のクルーザーを持った。
二十四フィート(長さ八米)のキヤビン付で、四ベット、キッチン、水洗トイレがある。

その後かれとは十年このヨットに乗ったがヨットで会うだけの奇妙な関係で、年齢もはっきり聞いたことも無いが俺よりやや若い。Nと一緒に乗ることも、各々一人で船を使うこともあった。

俺の目標は、まず太平洋横断、ほらを吹くようだが、金持ちでもない若造が、遊びに小さな家が建つぐらいの金を船につぎ込むなんてあり得ない。
程度の差はあると思うが、皆このような夢を持っているはずだ。

新艇はY製作所の二十一フイート(七米)クルーザーヨットを予定、この艇を持っている人から借りてセーリングテストもした。

最初は、やや波の荒い日中、二度目は横須賀方面から三崎~城が島の間を夜間帆走した。この時は天気も良く風も良く、月も無く降るような星と帯のように続く天の川がくっきりと見えた。

そしてヨットの航跡が夜光虫で青白く輝き、船の直進性の良さを証明するように真っ直ぐ後ろに走り、あたかも海の天の川のようであった。

城が島の灯台は俺を励ますように点滅を繰り返していた。
このキラメクような夜の情景は三十年以上経った今も目を閉じるとはっきり見えてくる。

この艇は思っていたとおり稜波性能も操船性も良く、構造は外板と内板が異なった方向に張り合わされた強度ある木造船体であった。マストの重量も太いパイプが船底のキールの所まで伸びて支えている。

これこそ我が命をあずけ大洋を渡る船と目標をこれに定め、とことんまで生活の無駄をはぶき一直線に貯金を始めた。

もちろん背広などは買わない、ジヤンバーでの通勤である。飲み会の誘いなどもすべて断った。テレビ修理のアルバイトなども夜遅くまでやった。
その頃の真空管式テレビはよく壊れ、バイトは忙しかった。

日曜はもちろんヨットでのトレーニングだ。でも目標があるという事は素晴らしい事だ!
忙しい毎日も、ぜんぜん苦しいとも思わず心の充実した日々を過ごした。

この頃から昼休み中英会話の猛勉強を始めた。ヨットで世界中を回るには、とりあえず英会話が自由に出来ればとの発想だ。

しかしこの様子は評判になったらしくそれから外国の研修生はすべて俺のところに押し付けられた。

忙しいのにさらに研修生の面倒なんか大変と思ったが、彼らは自社に戻れば若手のエリート、博士号を持っている人も居る。そこで昼飯を丁重にもてなす、関係する会社のチーフになりうる重要な人たちだ。

昼飯なので高が知れているとみたか。昼食の接待費は使いたい放題の承認を経理から取る。
昼はビールで乾杯レストランでうまいものを食って二時間の昼食タイムだ。これでだいぶ休息がとれた。

業務中と違い二時間の会話はいろいろ奥さんののろけとか、日本のお土産は何がいいか?など話題は多岐で会話のよいトレーニングになった。
最初は彼らが食事のはじめにドリンクを要求することがなじめなかったがビール一杯で満足するので午後の業務のさしつかえにはならなかった。二時間の昼休みとビールそしておしゃべり、これも外人の習慣か?

(註 ヨットを持ったのは東京オリンピック次の年
青二才の金も無い俺が、家を一軒買えるほどの大金を借金してまで購入していたのは、道楽のためでなく、その頃は命をかけていた岩登りに自分の限界を感じ、山から海へと、チャレンジの目標を変え、世界一周をヨットでやろうと狙っていたからだ。