第7話 闇屋から山屋になる
終戦の次の年、無事学費の安い県立中学に合格した春、親父が南方の戦場から帰還した。
しばらく捕虜として苦役に着いていたので、終戦後すぐには帰れなかったのだ
真っ黒で痩せこけ、目だけがギョロギョロした親父を見て、なんだかよそのおじさんに、逢っているようで、ちょっと照れくさかった。
父の会社の船員五百人のうち、生き残り五人というすざましい生還であった。
制空権を失った日本はアメリカ潜水艦の標的になりほどんとの船が沈められたのだ。
あんがい知られてないが船員は軍人を遙かに抜き、ずばぬけて高い戦死率だったのだ。
ところで親父は姉が家出をした事を聞き、おどろいていろいろ手をつくして調ベ、やっと福島の百姓に拾われていることがわかった。
そして福島まで連れかえりにいつた。当時は列車も少なく、複員者、闇屋等で汽車は満員で、しかも新潟~福島間は乗り換えも多く、迎えにいくことだけでも大変なのだ。
家につれてこられた姉は、食事に出された冬瓜がいっぱい、米は少しという塩味だけのお粥をみて「こんなものたべているの!」と、あきれたように言った。
俺はそれを悲しい気持ちで聞いていた。この姉は再び食料豊富な福島の百姓のところに戻っていった。
我が家の呑んべえの血筋を引いていたのか六十歳すぎのとき、悲しいことに、この姉は夜中に酒を飲んで歩いている所を、車にはねられ死んだ。
今でも自分が死んだことも気がつかずに、天国で酔っ払っているであろう。
自由奔放な生き方をした姉は、ある意味では幸せものだったと思いたい。
ところで、中学に入ってからの俺は、いつのまにか良いポジシヨンにつくようになった。これは教室の特等席のことで、窓側の最後尾の席である。
この席は窓からの光のため先生から見えにくいし、離れているから、早弁、居眠りもやりやすい。席は決められてなく自由なのだが、力関係で決まっていた。
なぜ俺が、この席を取れたかというと、理科少年の俺はテストのときに理科、数学だけは満点に近い点数をとる。後の学科は全然ダメで英語などよく追試をうけた。
また、回答も早いので、先生がよそを向いたとき、俺はおもむろに立ち上がる。そして答案用紙を背においてゆっくり進む。
すると先生は気がつき「おまえ、なんだ!」と言う。そこで「出来ました」と言うと先生は持ってこい、という。
このわずかなタイミングでも当時の理科間題はほどんと○×式なので、俺の脊にある答案を見て、かなりの点数がかせげる。
俺の近くの席は、上席となり、油でベトベトの学生帽バンカラの仇名はペテン、蛙のガマに似ているガンマなどの頭の悪いそして少し悪い連中が集まり、俺はその連中に担ぎ上げられいい気になった。
先生までがおれを悪って呼ぶしまつ。問題児だったのだろう俺の仇名の悪はここでつけられたらしい。しかし勇気のある奴がクラスにいて俺はそいつからつるし上げを受けた。
先生もうすうす気づいているようで、悪い連中に勇気をもって中止宣言をした。
体育系のがっしりした体の俺に悪童連中も何も言わず了解した。
俺はしばしば早弁(弁当を昼前の時間中に食うこと)をした。
現在のようなファミリーレストランそこのけのメニュー弁当では、難しいと思うが、当時の食料事情で弁当の中身はサツマイモ等だから、手掴みで食べられ、先生に見つからない。
また、朝食はカボチャ、大根等の入った薄いお粥だから、昼までもたずハラペコになる。そこで早弁となるのだ。 でも昼は食べるものが無い。空腹をまぎらわすため草野球をやる。
物の無い時代、手ずくりのボール(石に毛糸を巻き外側を布を縫い付けたもの)と角材のバットだ。もちろんグローブなど無い。
当時テニス部に入っていた俺は、それでも放課後少し練習をして、空腹でよろめきながらやっと家にかえるのだ。
だから今でもこの思いは忘れられず、食べ物を無駄にするのが嫌いで、女房が食べ物を腐らせたりするとつい、文句を言ってしまう。もったいないという気持ちからか、残り物でなんか料理を作るのが得意である。
ところで中学へ入ってからは、ラジオ製作実験のほうが多くなった。ラジオ製作は金がかかる。と言っても大人ですら、まともな仕事の少ない時代、おれのアルバイトは農家から卵を買い集め、新潟市の八百屋へおろすのだ。
この仕事は親父がヤミ米を農家から買い集める副業として始めたものなのだが、俺のバイトとして定着した。貴重な資金源なのだ。
このころ米は農家から政府がすべて買い上げ国民に定価で配給する制度なのだが絶対量が足りず、農家が隠し持った米を高く売るのがヤミ米としてあり、違法なので持っていれば没収、警察官の仕事だ。もちろんタダで取り上げられる。
俺の卵やバイトは、もみ殻を入れたリンゴ箱ににひもを付けて背負い、農家を回り 五個、十個と卵を集める。
汗を流して集めた儲けは店を構えているだけの八百屋のおやじの半分であった。
金の有るものの強みで言い値でたたかれ、世の中の矛盾を感じながら、それでも仕事は続けた。この金で米を買い東京へ持っていくと上野の寿司屋が買ってくれる。
この頃、闇米の取り締まりが駅、列車でしばしばあったが、学生服で身をかためた俺を、上京する学生と見たか、おまわりさんは、一応「荷物の中身は何か」と聞くが俺が、本だと答えると、中身の検査までせずに見逃してくれた。
しかし闇米は見つかれば没収されてしまうので毎度はらはらの連続の上京であった。
幸いにして学生の俺はコメで捕まったことはなかった。
いつか一緒に東京に行った四歳年上の従兄弟は、米を少しでも高く売ろうと上野を歩き回り、米を奪われ殴られ目に黒いあざを作って帰ってきた。この頃のアルバイトは危険がいっぱいなのだ。
東京からの帰りは、上野の闇市でセッケンを買っていく。柔らかいセッケンのブロックを、今の石鹸くらいに切ったものに、こちらの注文でニッサン、花王などの名前を木型で打ち付ける。
もちろんこれはメーカーに関係ないインチキ品だ。これを持って帰り、卵集めのとき農家に売りつけるのだ。しかし水分の多く入ったインチキ石鹸なので早く売さばかないと乾いてシワシワになる。
ところで、東京へ行く大きな楽しみは、秋葉原のジャンク屋あさりである。今では想像もできないが当時の秋葉原はガード下の2m四方ぐらいの区切った区画にラジオ部品のジャンクなど並べた露天商がひしめく町だ。
ジャンクとはラジオ部品のガラクタであり、その中から今、自分が考えている物、使えそうなものを探す。
宝の山に乗り込んだようで、目のくらむような思いで、夢中の時間が過ぎる。
しかしアメリカ製の高い部品はあまり手が出ず、旧軍隊の安いガラクタをあさった。当時の秋葉原はラジオの部品市で、いまの秋葉原になるとは想像もできない。
そして、変なラジオを作って楽しんでいた。
正規の部品で作るのなら、ラジオ雑誌のとおりに組み立て、すぐ動作するのだろうが、それが変なガラクタで代用するのでなかなか働かない。
試行錯誤してやっと鳴りだした短波放送の世界の不思議なことば、音楽に魅せられたように聞き入るのであった。
半世紀以上もたった今も、このノスタルジアが末知の国、世界への旅に俺の心をかきたてるのかもしれない。
船が無く自宅待機の親父は支給金も少なく、食えず、闇米屋をして米をせっせと東京にはこび僅かな金を稼ぎだしていた。ところで中学時代、家が貧乏で中学をやめて、俺も電気工夫になろうとしたのだ。
空襲で壊滅した造船業も米ソ対立のおかげで船を作ることをアメリカに許され、復興して船も出来てきた。
親父もやっと船に乗れるようになり、そして1950年アメリカとソ連、中国の代理戦争、朝鮮戦争が起きた。
高校時代、朝鮮戦争の特需で、親父の船会社はアメリカの物資を運び景気が良くなった。
しかしアメリカの物資を運ぶ親父の船はそばにまで砲弾が着弾する危険があった。親父は砲弾が一発落ちると、何ぼ危険手当が出るなんて喜んでいるような話しを帰ったとき言っていたが、本当は怖かったのだろう。
今では日本全体で平和ボケしているがアメリカとの戦争が終わった後でもこんな危険な目にあっている日本人が居たことを知ってほしい
俺の高校2年の時、朝鮮戦争の特需で少しばかり余裕のできた親父はお前が行きたいなら学費の安い国立大学ならいってもよいと言われた。
我が家はこの年、東京へ行くことになっていたので東京の大学へ受験というのが本当なのだ。
しかし勉強らしいものはせず、ずうっと趣味に生きてきた俺には無理と、思った。しかし大学は本格的な実験、研究ができるのではないかと期待して本気で受験勉強にとりかかった。
しかし1年半しかない。当時国立大は8科目もの試験がありにわか勉強ではとても歯が立たない。そこでとりあえず新潟の国立大学を受けたがマグレか?合格した。数学2教科、理科2教科の四つだけの点数を取った片肺合格だ。
大学は予備校がわりに席をおき英語、教学、社会など関係有りそうな講座だけ出た。
やがて一家は東京へ行き、俺もあとを追いかけ、東京の代々木予備校へ入った。
費用の安い国立大学(この頃の日本は貧乏学生に優しく国立大の学費はとても安かった)ということで、一期校にA大、二期校にB大を受けた。
なぜA大だって、それはやるならトップの大学に入り親父を喜ばしてやりたかっただけで良い会社に入り出世しようなんて気持ちはあまりなかった。
一次は忘れたが十数倍の倍率と思った。これはパスしたが、趣味と実益の学生生活にひたっていた俺の頭ではどうにもならず、二次試験で落ちた。
この時の三倍という倍率は強烈な印象となって頭に焼き付いた。ああ俺は三倍に破れたのだとため息をついた。
国立二期校は趣味と実益の電気の大学、のはずだっが、しかしここで俺は山に夢中になり、あまり学校に行かなかったので、卒業の時、アルバムの寄せ書きで俺の名前の下にサボリと書かれるしまつとなった。
え!せっかく入った大学なのに、なぜサボッタのかって?
それは授業は理論ばかりで俺好みの趣味と実益の実験実習が少なかっただけのことである。
でも親に申し訳ないとの気持ちも、あり追試で単位を取りやっと卒業はした。 親父は船乗りで家に滅多に帰らずオフクロだけを心配させていた。
そして佐渡の探検で火のついたアウトドアの心は、再度燃え上がったのだ。
授業に行かず、町の山岳会に入り、毎月のミーティングで山の話に熱中し、ガヤガヤと谷川岳などに行きザイルなどにぶらさがったりした。
しかしあわただしく登りその日に帰るという山行には、いつか飽きてきた。
山に登って見れば三国峠まで続く山なみ、はるか下には、多くの沢、深い谷が、かすかな 滝の音をひびかせていた。
俺はいつかそんな山を見つめるようになり、気がついた時は、一人で行くようになった。 まあ、ちょっとした岩を登り、そして山の上で食料が無くなるまで、ぶらぶら過ごす山岳ルンペンである。
持っていく食料は今のように便利なインスタント食など無く、かつおぶしを醤油で煮詰めたもの(これは醤油にもなり、ふりかけにもなる)、干したニシンを細かく切ったものに味噌を混ぜたニシン味僧など工夫した。
缶詰などは重いし高いので持っていかなかった。今は色々な便利なものがあるが、俺は今でも山では簡単な食事でも満足する。素情らしい景色を眺めながらではインスタントラーメンでもうまいのだ。
岩も少し登るので装備は工夫し軽量コンパクトにした。一人用に縫い縮めたツェルトテント、半身寝袋等だ。泊る所は主に無人小屋であり、管理人の居る山頂の肩の小屋は金を取られるので泊まらなかった。
ところで岩を一人で登るのはザイルが使えず危険なのでおすすめできない。
しかし若気のいたりか、俺は絶対に落ちないなどという変な自信があり無茶をした。
冬は雪が深く装備も良いものを持ってなく、一回行って懲りたのでおとなしくしていた。 谷川岳には春から秋の新雪が降るまでよく行った。毎週ではなかったが、天気がよく、金が少しあるとすぐ出かけた。
金を稼ぐアルバイトはラジオの組み立てで、この頃は組み立てキット部品で作る電畜(電気蓄音機、レコードを聞けるラジオ)が多かった。
なぜ谷川岳かというと、夜行で行け、岩もそこそこにあり、山も深い。それに何よりも良いのは汽車賃が片道ただ?
当時休日前夜の夜行は混んでギュウギュウであった。特等席は、いわゆる四等寝台だ。これは椅子の下に潜り込み、足を通路に出して寝る。
上の椅子に女性が居ようとかまわない。次の上席は椅子で、その次は通路に新聞紙を広げそこに座る。最悪の場所はデッキに立つ。これは一睡もできない。
こんな状態だから、車掌は検礼に来れない。そこでキップ無しで乗る。
当時の夜行の土合駅(谷川岳登山口、昔はトンネルとトンネルの間の山間に駅があった〉は駅員が一人で改礼にあたり、俺はキップを持っていると、ばかり悠々と改札口を通らずに、ホームから近道の登山道へと飛び降りる。
夜行でこの駅に降りる登山客はかなりあり、改札口は込み合い、キップを持っていても?近道のこの方法を取る人もかなりいた。
俺は汽車賃をケチるなどというセコイ考えでは無く、こんなに混んだ状態では半額ぐらいが妥当だと思っていただけだ。
帰りは必ずキップを買った。これで検札があっても安心して寝て帰れる。