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もみの木山荘オーナーの自分史。イジメられっ子からガキ大将へ。あだ名はガキ大将アク(悪)

もみの木山荘オーナーの失敗談「トホホ物語」。旅がやりたくて脱サラ、ど素人がペンション経営 もみの木山荘作るまでの・・・!

宮城蔵王貸切ぺンション「もみの木山荘」オーナーの真実の話を掲載しています。

もみの木山荘オーナーの写真館。山と高嶺の花、旅のエッセイ写真集です。

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オーナー自分史

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 第6話 唯一の調味料、海水から塩作り
[ No. 8 ]

戦後、、食料事情は悪く、東京では餓死者が出るほどで、我が家でも生きるため食うのがやっとの状態で、味噌、醤油などの調味料は夢のまた夢。

主たる調味料は塩である。 我が家はこの塩も倹約するため、海水から作ることにした。

天気の良い日、砂浜で乾いた砂の上に海水を撤くのだ。 これを二~三回やって砂を集めて海水でこすと調味料になるくらいの濃い海水が出来る。これを作るのが俺の係だ。

砂に撤いた海水が乾くのを待つ間、夏なら泳いで遊び、春、秋はそばで見張りをかね昼寝である。 なぜ見張りをするかって?

それはどこでも、いたずら小僧は居るとみえて、海水を撒いている砂の上に小便をするやつがいるからだ。 こんなわけで俺は、ますます黒く、ピカピカになった。

少し風も肌寒さを感じるような或る秋の日、いつものように、ハダカのフンドシ姿で海へ向かう俺は、顔なじみの悪ガキとすれちがった。

他のクループのガキ大将であるそいつはこんなに寒いのに「まだ海に行っているのか!」とびっくりして俺に聞いた。俺は得意になり、ニヤッとして、持っていた一升ビンをかかえなおし、そいつとすれちがった。

浜では終戦により産業活動が止まり、余った電気で、海水を煮つめる製塩掘っ立て小屋があり、青い秋空に盛んに白煙をあげていた。

その頃は食料事情も悪く、知り合いのない疎開者の俺達は特にひどかった。
配給のわずかばかりの米は、これ以上水で薄められないような薄い粥になる。

これをゴマかすためか、さつまいものつる、大根の葉っぱ、野草(たぶんアカザのようだった)等、やっと手に入れたあらゆる物を入れて増量する。カロリーは無くとも空腹感を紛らわすためだ。

今の若い人たちは本当のつらい空腹を知らないだろうが半日ぐらいたつと足を前に踏み出すことがつらい。今の時代はダイエットで節食の人はそれでも何か少し食べているからもつのだ。

回りの畑には、さつまいも、カボチヤなどいろいろ農家の畑があったが、腹はへっていたのになぜか、そんなものをかっぱらいに行かなかった。それは泥棒なのだから。

食料の調達は、大人の仕事くらいに考え、空腹を我慢して遊び歩いていたのだ。しかしこんな生活に、耐えられなくなったのか、姉はとうとう家出をした。

ところが、食う物もろくに無かったのに理科実験、電気製作にとりつかれた俺は空腹もなんとか紛らわせた。

木などの植物繊維はブドウ糖などが結合して出来ているということを立ち読みで知って塩酸で分解して作ろうと試みたがなぜか失敗した。甘いものなめたいなー。

その頃理髪店で切った髪の毛で作ったアミノ酸醤油なんて今では考えられない薄気味の悪い調味料があった。
たんぱく質である髪の毛は塩酸で分解するとアミノ酸の醤油になるのだ。木からブドウ糖も同じ原理なのだが。

酒といえば燃料用アルコールを混ぜた恐ろしいものが出回った。毒性が高く飲むと目がつぶれ、そのアルコールのなまえはメチルアルコール、そうか!目が散るからメチルか?
なんていう人もいたが、毒アルコールの正式な名前で、飲めるアルコールはエチルアルコールと申します。

実験道具といえば、試験管、フラスコ、ぐらいしか無かったが、薬品はよく集まるようになった。今まで欲しくても手に入らなかったような試薬を夢中で集めた。そこは、フラスコなど買った店で聞いた、ヤミの薬屋だ。

今では考えられない覚せい剤(ヒロポンという薬)まで堂々と売っていた。
徹夜で勉強する学生に愛用されていたのでその頃は合法だっったのか?

たぶん軍需工場から持ち出した試薬を、小分けして売っていたのだろう。約二十五グラム入のビンに分けてくれた。 え!その資金はどうしたかって?

この頃、家の鳴ったり、とまったりするポンコツラジオをいじっているうちに、ラジオの修理を覚え、空襲警報を聞くために酷使された、近所のラジオを度々修理した。

その頃の真空管式のラジオはよく壊れ、とてもよい収入になった。
間宮林蔵末裔は、ラジオにとても興味を持っているようで、入り浸りの毎日であった。

俺も修埋の部品を買いに行ったラジオ屋に入り浸り色々教えてもらった。
ラジオ屋にとっては俺はさぞかし、うるさい存在だったと思う。

俺は毎日実験に励んだが、加熱源は小さな電熱器(ニクロム線が渦巻き状に入っている簡単なもの)である。

ところで、その頃配給された小麦粉をパンにする電気パン焼き器なるものがあった。何かの話を聞いてそれをヒントにした、手作りである。

これは、約一升マスほどの大きさの木枠を作り両端にブリキを張り電線を繋ぐ。小麦粉に少々の重曹と塩を入れて水でこねた小表粉を入れる。

塩水が電気を通し、その熱でパンが焼けるという、シンプルで便利な器具である。
しかも焼けてくると、パンが縮んでブリキの電極から離れ、電気も自動的に切れるというすごい器具だ。

しかしブリキの表面の亜鉛は毒だと云うことを聞いて、亜鉛を硫酸でとかした鉄板を電極に使うという手のこんだ工夫品だ。必要は発明の母と思う。

この便利なパン焼き器は近所にも何台か作って喜ばれた。タダで配ったが、お礼にサツマイモ。カボチャなど貴重な食料をいただいた。

しかしこの器具は塩を入れすぎると電気が多く流れブレーカーがとんだ。
味噌汁ぐらいの味では電気が流れすぎる。ほんの薄味でよい。
その頃我が家では電気はメーターでなくブレーカーが付いているだけだ。

何アンペアでとんだかは覚えていないが電気パン焼き器と、俺の実験用電熱器を使うと、よくブレーカーは飛んだ。実験には途中で加熱を止めると具合の悪い物がある。

そこで俺は天井に潜り込み、電気がブレーカーを通らないように、パスさせる電線を取り付けた。これでいくら電気を使ってもブレーカーは飛ばない。

ところがある日、俺の家の近くに雷が落ちた。電線を伝わって雷のおすそ分けだ。そして電球は破裂しポンコツラジオのトランスは黒焦げになった。

俺も肩のところに電撃を受け、小さな穴があいた。その傷は小さくても深いらしく、じくしくとして、なかなか治らなかったが、根気よくアカチンという赤インクのような薬を塗って治した。

アカチンキは水俣病になる有機水銀で、今は売られていないが傷にとても良くきく万能ぬり薬だ。

ところで雷が家に落ちたのは、ブレーカーをいじった俺のせいにされ、俺もおそろしくなって、すぐ元のように直した。もちろんパン焼きの時には加熱実験はやめた。