第3話 佐渡島大探検
高等尋常小学校一年の夏も近い頃、俺達は夏休みにキャンプをやる事にした。
しかしアウトドアーフィルドそのものという所に住んでいた俺達は、そこいらの川原でキャンプなんていう訳にはいかない。
そこで夏休みに、佐渡が島一周の大探検計画を立てた。
当時の大人は食料を集めるのに忙しく、キヤンプどころではない。まして満足なアウトドアー用品などあるわけがない。
テントは学校の運動会で使う、偉い人が日焼けしないように張る屋根付きパイプテントである。これを学校から借りた。
パイプはじやまになるので残して代わりに物干し竿を切って支柱を作った。食料もこんな時あるはずもなく、集まったものは干塩鱈少しと麦わらの少し付いた大麦というもので、もちろん米など出すやつはいない。
炊事用具はハンゴー、これは誰の家にもあった。兵隊の支給品で、出回っていたのだ。
いつも立たされ坊主の俺は、この時めずらしく宿題をやってから行くことにきめ、皆を集めて勉強会を開いた。
ところが約束の時間を一時間過ぎてもダンゴが来ない。そこで行ってみると、ダンゴは玄関の所に腰掛けポカンとしていた。
俺はそこのお母さんが見ている前でいきなりダンゴをぶんなっぐった。さすがにお母さんは怒って俺を追いかけてきたが俺の母には言わなかったらしく叱られなかった。
その頃は金持ちといえども食い物を集めるのに忙しく、そんな事をしている暇が無かったと思う。俺も家来を殴ったのは初めてで最後であった。
大探検の目的地の佐渡は船で行かなければならない。俺は恐る恐る母に、この計画を話し船賃をせびった。たぶん一発でことわられると覚悟をしていた。
その当時、未だ父は復員しておらず、俺の所はそんな余裕はなかったのだ。
ところが家で皆、集まって色々計画をたて、エキサイトしているのを見ていたからか、母はスンナリと金を出してくれたので、俺は驚いた。
どのようにしてこの金を工面したか、聞こうと思って聞きそびれ、現在に至っている。だがもう聞くことは出来ない。それは十五年前に母は、天国に旅だってしまったからだ。たぶん着物の一枚が、これになったのだろう。
佐渡大探検隊は俺の他、子分の草刈り、家来のヒロ、トンマ、ダンゴの五人で出発した。船は新潟から、佐渡の両津という港まで二時間の航海だ。
初めての探検隊は、おおはしゃぎで船の中も探検しキヤビンはもとより食堂、操舵室から機関室まで覗いた。機関室では「危ない!」と怒られたが、入り口から覗かせてもらって、機関の説明までしてもらった。
親父の船には見学で止まっている時だけ見たが、動く船を乗って中を探検するなど俺をはじめ皆も初体験、興奮のしまくりだ。
特に俺は機関室に関心があった。船底から甲板までぶち抜き高い、そして下のほうでシリンダーがダダダダーと規則的に動き油の匂いが漂っていた。
この程度の船でもすごいと思った。親父の船だったら生きている機関室はもっとすごいだろうと想像した。
やがて船は両津に入港し、俺達は北上を始めた。この頃、ガイドブックなど無く、兄の教科書、日本地図の佐渡が書かれている所を破って持ってきている。方向を定めるコンパスは水筒の蓋に付いているおもちゃのようなものだ。
なぜか昔の水筒には小さいが、フタがコップになり磁石がついて便利だった。
地図そのものも小さく、良く分からないが現地で聞けば良いぐらいの、のんきな旅だ。テントを物干し竿にくくりつけ、カゴを担ぐようなスタイルで歩いた。
第一日目のキャンプ地は地名は忘れたが美しい浜にキヤンプした。
ほど良く岩が混ざりあった砂浜、海は青く明るくブールのようになった湾、山から清水が小川となって流れ込み、遊ぶ所がどこにもある天国のようなところである。
あまりにも美しいのと、また動くのがめんどうになり、ここで三日過ごした。天気も連日良く、終戦により産業活動が止まり、空気が澄んでいたためか、夜空も今のように濁っておらずこぼれるような多くの星、そして天の川もばっちりと見え、夜もすばらしい。
しかし、なにより感激したのは、この島民の親切さであった。
当時百姓にあまり良い感情を持っていなかった俺は、不足分の食料は現地調達、すなわち畑で、いも、とうもろこし、などをちょつと失敬ってな考えであった。
ところが当時大人ですら食料をかき集めるのに一生けんめいな時代、子供だけのキャンプがめずらしかったのか、どこでキャンプしても島の人から、銀シャリのオマンマ、、魚貝、野菜など、それこそ見ただけで目のくらみそうな、山海の珍味をいただいた。
この頃の島人は、本当に純朴で温かい人ばかりだったのだ。
今まで子供から佐渡のキャンプをねだられた事があったが、俺はこの時の素晴らしいイメージを壊したくないので、二度目の佐渡は行っていない。
今ではピカピカ4wDの車のオトウサンや、文化生活そっくりという装備を持ち込んだ人で満ちあふれ、それを目当てに金儲けしょうと目をギラつかせた観光業者に、取り囲まれるであろう。
キャンプは少ない道具を工夫して活かすのが面白く、シンプルイズベストでそんな文化生活がしたかったら家に居て、どこかの旅行ビデオを見ていれば良いのだ。
第一、キャンプの道具が多いと帰ってきてからの後かたずけが大変なのだ。
あ、そうか!それがめんどうで、なんでも現地に捨てていくのか。
俺の知っているだけでも、暖をとったと思われる石油ストープ、焦げたままの鍋など枚挙のいとまがない。
ところで話をもとに戻して、佐渡大探検は島の北端まで行かず、山にも行きたくなり、ドンデン山という山へ登る事にした。
佐渡の山で一番高いのが金北山で二番目の山である。なぜドンデン山かというと、道がその山へ続いていたからであり、なんとなく山へ登ってしまった。
ドンデン山頂は、芝生で覆われた緩い起伏がどこまでも続く、広い緑のジュウタンの天国であった。 俺達のほか誰もいない。手を広げ大声をあげ走り回り、転げ回った。
ドンデン山頂にはボロな山小屋があった。この日、俺達はテントを張らず、山小屋に泊まった。そこで俺は、このボロ小屋で、南京虫にたかられた。
南京虫を知らない人が多いが中国の南京で刺された人が命名したのかな? しかし俺も刺されたのは初めてだ。
この当時は、ノミ、シラミ、ダニ等、あらゆる吸血虫がはびこり、俺達はこの知識も十分あった。
南京虫は、どんなに熟睡していても、さされた所の筋肉が、けいれんするほど痛がゆく、咬み痕は、二つ付く。また逃げ足も速く、捕まらない。
毛布を良く調べるが今のようなカラフルな毛布ならいざしらず、国防色とやらの、今の自衛隊の車の色のような毛布では、どこにいるのか分からない。
下山した次の夜も悩まされた。
そこで俺は一計を案じた。川のそばで寝て、咬まれた瞬間、シヤッのままで水に飛び込んだ。この作戦は見事に成功した。川のなかで脱いで水につけて置いたシャツには、水で溺死した南京虫がへばりついていた。
テントウ虫より小型な茶色の虫であった。(今の呼び方はオカジラミというそうだがシラミの形ではない)
南京虫は体格の良い俺だけにたかり、他の人は無事であった。
かくして両津に着いて俺達の大冒険は終わった。
今のように親から連れていってもらうキャンプでなく、俺達で企画した、一週間の輝くような思い出のキャンプであった。え!何で佐渡一周しなかったって?
それはドンデン山に登って下りたら、両津にたどりついただけ、子供の旅は自由そのものなのである。
ところで本当のことは佐渡が島を歩いて一周するのに、どれくらいの日数がかかるのか、ガイドブックもなく、よく分からなかった。
兄貴の中学地図でみた佐渡が島は、小さな島で数日で一周できそうに見え、一週間もあれば充分、と思ったのだ。