第2話 ガキ大将「悪」アク
終戦の年の晩秋百姓丁椎から解放された俺は家へ戻り、そして初冬の頃学校へ入った。小学校六年の、かってのいじめられっ子は逞しいターザンのようになっていた。
田を耕したり重いものを背負ったり毎日の筋肉労働で、胸は厚く広く、腕も太く、体は真っ黒である。かってのいじめっ子のガキ大将も、一目おくようになった
そして誰が付けたか俺の仇名は、悪(アク)と呼ばれるようになった。このような俺の所に子分が出来そして家来が集まってきた。
家来はガキ大将の所に入るため、一回だけ貢ぎものがいる。まあ入会金のようなものである。子分はガキ大将の助手で、腕っ節も強くなければならない。そのかわり貢ぎものはいらない。
この頃のガキ大将は今のいじめっ子のような陰湿さは無い。ガキ大将どうしの争いも無く、またどこかのグループに属していればいじめられる事もない。
子分家来は他のがき大将から殴られる事も無い。多少不良っぼいのもいたが、今のようにヤクザミニチュア版、先生すら殴るなどの凶暴なのは無かった。
なんとなくルールの様なものがあって、平和に治まっていたように思う。
入会した家来の中でダンゴという仇名の奴がいた。その頃、食料事情も悪く皆痩せこけていたがダンゴは金持ちで、うまいものを食っていたので肥えて顔は丸ポチャである。おまけにまん丸いメガネまでしている。
そこでダンゴという仇名を付けた。しかし俺はこのダンゴが持ってきた貢ぎものに目を剥いた。なんとそれはエナメル線とバッテリーである。
かって俺は百姓の丁椎をしていた頃に、拾った少年雑誌にモーターの製作法が書かれてあった。こんなものを作りたいといつも思っていた。
その頃の少年雑誌は、今のようにマンガが多く少年少女がベタベタチューなんてのは無く、天文、模型製作など実用記事に満ちあふれていた。もちろん戦時中のこと勇敢な軍人の戦う様子も賛美する記事は多かったが。
エナメル線さえ有れば、そこいらのブリキでモーターが作れるのにと思っていた。そのエナメル線が目の前にある。エナメル線とは、エナメルをかぶせて絶縁をした銅線である。俺は夢中でブリキを切り、エナメル線を巻き、モーターを作った。
バッテリーにモーターを繋ぐと、ブンブンと音を立ててモーターは回った。バッテリーに モーターを繋ぎ回すだけ、まったく単純なものだ。
しかしこの喜びは、やってみたものしか分からない。今はやりの親が買ってくれた、リモコン模型スポーツカーなどで遊ぶのとは天地の違いである。
まさしくずーと欲しかった物が、俺の手で出来てそれが動くのだ。
だがバッテリーの電気は、やがて無くなった。そこで充電をする事になったが、いくら電灯線から電気を入れても充電されない。そこで古本屋で立ち読みをして、電気には直流と交流があり、充電は直流でなければ駄目と分かった。
この本には家庭用の電気は世界中ほどんと交流であり、直流はノルウェー等の漁村の一部にしかない、とあった。この時俺は、ため息をつきノルウェーに生まれていれば良かった、と思った。
そうは言っても、ノルウェーまで充電しに行くわけにもいかず、バッテリー屋で、充電の方法を聞いた。
ところがバッテリー屋の兄ちやんが、こんなものでやると指さす方向を見ると、その機械はメーターが付いていて、中には電球のオバケが青白く光っていた。
こんなものと言っても頼めば金をとられる。そこで一生懸命に考えた。
交流は、プラスとマイナスが忙しく変わるだけ、どちらか蹴飛ばしてやれば良いと例のエナメル線で馬蹄形磁石と組み合わせて、ブザーのようなものを作り充電をした。
しかしブレーカーが飛んで電球を直列に入れる事など工夫はした。
泡が多く出る方がマイナスという事はバッテリー屋で聞いた。
この試みは見事に成功だ。 こんなことがあって俺は物の製作と理科実験が好きになった。それからは小学校の先生にも色々聞いたが、あまり期待した答えは、かえって来なかった。
珍妙な質間を出す俺に先生も困ったであろう。しかし先生は、俺が理科好きな事は分かったようで、子供の喜びそうな実験の薬品を、ちょくちょくくれるようになった。
しかし劇薬はもらえなかった。劇薬とは濃硫酸、カセイソーダー等である。ところが俺は濃硫酸がとてもほしかった。
これは料理でいえば基本調味料のようなもので、色々な実験のもとが出来る。そこでバッテリー充電で希硫酸を使っている事を思いだし、バッテリー屋へ行き少し分けてもらった。
いくらとられるかと、もじもじしていると、バッテリー充電の話等で顔なじみになったお兄ちやんは、「いいよそれくらいやるよ」と言った。そのほほえみは仏のようであった。
もらったビールビンー本ぶんの希硫酸を電熱器に乗せたドンブリで(陶磁器は酸に強いことは古本立ち読みで知った)煮詰めていると白煙が立ちのぼってきた。濃硫酸になったのだ。
俺はこの時の白煙を吸い込み右の気管支をやられ、体調を崩すと今でも端息のようになる。理科実験の事門知識は、すべて古本屋であさった。新潟には総合大学があり、専門書の古本屋が多かった。
この頃の古本屋は、趣味でやっているような人が多く、難しい本を立ち読みしている少年をニコニコして見ているばかりであった。
小学校の図書室では、童話のたぐいしかなく、県立図書館は、カードで本を探す方式で、あまり必要な情報は得られなかった。
次の年の春、中学を受験するのが普通であるが、この頃の中学は、今の高校に相当し入試もあり、さらに落第まである。
家は貧乏、県立に入るしかない。しかし百姓丁椎で勉強していない俺には無理だ。そこで当時、尋常高等小学校という義務制ではないが無試験では入れる学校があった。
小学校の延長で二年制の、まあ今の中学みたいなものである。俺はここの一年に入った。今で云えば高校に入るための中学浪人である。