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もみの木山荘オーナーの自分史。イジメられっ子からガキ大将へ。あだ名はガキ大将アク(悪)

もみの木山荘オーナーの失敗談「トホホ物語」。旅がやりたくて脱サラ、ど素人がペンション経営 もみの木山荘作るまでの・・・!

宮城蔵王貸切ぺンション「もみの木山荘」オーナーの真実の話を掲載しています。

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オーナー自分史

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 第19話 嵐の海(散々なヨット旅行)
[ No. 21 ]

新婚旅行は散々だったので、翌年の五月連休(昭和四十五年)なんとなく新婚旅行のやりなおしの、つもりでヨット旅行を思いついた。

ヨットは4ベット、キッチン、水洗トイレ付きの26フィート(8メートル)艇で友人との共同所有だ。

独身貴族時代、有り金をはたいて買った唯一の資産なのだ。太平洋横断の堀江青年艇(19フィート)より大きい。

このヨットを使って伊豆七島を回ってこようというものだ。
しかし、万一落水したら女房一人で漂流とならないように友人も乗せた。

ところが出港時には考えられなかった巨大な低気圧が急速に出現、なにしろ台風並みなので名前まで付けられる始末だ。

式根島は近ずくにつれて白く牙を剥き出し、とても入港出未る状態ではない。そこで風と波の方向を考えて伊豆半島の稲取へ緊急避難すべく転針(コンバスで方向を定め舵をとること)した。

この時風もあったが、それより波の巨大さにびっくりした。目測で八米位あり俺のヨット人生では最も高い波であった。

青黒い波はジワジワとヨットを波の上へ吸い上げ、てっぺんで無重力状態のようにふわりと投げ上げ、次の瞬間奈落の底へ叩き付けようとする。

叩き付けられたヨットはヒール(風で傾いている)側の窓はキャビンから見ると青い海の中である。まるで潜水艦だ。

その都度、波は激しく甲板を流れ、蓋をしめたハッチ(キャビンと外の出入り口)の隙間から激しく海水がキャビン内に噴き出す。

このままにしておくと、船は重くなり操縦しにくくなる。横波をくらえば転覆もする。

友人はゲロを吐きながら、船内で必死にビルジポンプ(手動の排水ポンブ)を動かしている。二人でもこのていたらくだから、太平洋を一人で渡った堀江青年はやはり偉い。

この時女房はどこで、どういうスタイルで寝ていたか、俺は全く覚えていない。
操船に手一杯で目に入らなかったのだろう。

メインセール(主帆)は風の抵抗を少なくするため、巻いて縮め、ジブセール(前帆)を強風用の小さいものに変えるなど目が回るほど忙しいのだ。

船の上下動を少なくするため、少し遠回りになるが波を斜めに切るようなコースを取る。いつやったか分からないが四本あるバテンが三本も折れていることに気がついた。

バテンとはメインセール(主帆)に入っている、人間にたとえれば肋骨のようなもので、長さが少しずつ違う五十センチから一メートル、巾五センチほどの薄い板である。

このため主帆は、バタツキそこから帆が破れないか、気が気でない。操船もやりにくい。ヨットを始めて七年目だが、バテンまで折れた強風は初めてだ。

やっと稲取が見えホッとしたが近ずくにつれ港口ではものすごい波が牙をむいている。

大きな波が防波堤にぶつかって反射し、スルスルと沖へ向かうと、沖から来た波とぶつかり、ドーンと音をたて白く砕ける。それは巨大な三角波で、水の爆弾のように爆発する、恐ろしい返し波だ。

入港時プロの漁船がやられるのは、この波であり、まともに食ったら船はコントロールを失い横倒しになり、そしてサーフィンのように波に乗り、防波堤に叩き付けられ船はバラバラになる。

見ると防波堤に十数人の人が、俺が入ろうとしている方向のはるか斜めを指さしている。この方向から入れというサインと見て、ふたたび船を沖へ出した。

その方向からは返し波も少なく、無事入港することが出来た。そして皆はロープを取って船を着けるのを手伝ってくれた。その人達は、俺が上陸するやいなや、海で難儀して大変だっただろう、と声をかけてくれた。

そして皆は自分のところへ泊まっていけと取り合いである。そこでどうしても泊まれと言う、タバコ屋のお婆さんのところと、釣り具屋に分宿することになった。

とは、いってもゲロを吐きながら苦しんだ友人一人を泊めて、女房とぬくぬくというわけにはいかず、タバコ屋に女房、俺と友人は釣り具屋という変な組み合わせとなった。

翌朝女房を迎えに行くと、一人暮しのお婆さん、最近息子が結婚し、より付かなくなったとのこともあり、寂しいのか、なかなか女房を離さない。

近くのガキが駄菓子を買いに来ても、持っていけ、金はその辺に置いていけ、とかなんとか言って、最近やり始めた俳句を一生懸命に女房に説明している。元看護婦だったという、おもしろいお婆さんだった。

女房を連れて帰るのをあきらめた俺は、折れたバテンの修理を釣り具屋に相談した。

バテンを見て釣り具屋は、建具屋が良いだろうと案内してくれた。

バテンというものは、帆の肋骨であるから、そこいらにあるベニア板を切って作るというわけにはいかない。ほどよい硬さと弾力がいる。まして材料に節穴などあったら駄目だ。

しかしさすがに建具屋、上等の木を使って、ほぼ同じようなものを作ってくれた。値段を聞いたら「海で難儀した人、金はいいよ!」と、どうしても金を受け取らない。

釣り具屋、タバコ屋のお婆さんも同じであった。
海の民、稲取の人達は、海で難儀した者に、やさしいのだ。なお、俺が入港した日、稲取のプロの漁船が一隻遭難し、不帰となったそうだ。

次の日もまだ海はかなり荒れていたので女房に陸路帰るように頼んだが拒否された。心配しながら陸路を一人で帰るよりも一緒に海に沈んだ方がよい?

さんざんな思いで稲取から帰った俺に、びっくりする悪い知らせが待っていた。
南アルプスに出かけた山岳部から、下山予定日に連絡が来ないということだ。

俺が伊豆沖でさんざんな目にあった低気庄は山でも暴れていたのだ。
残っている部員に連絡を取る。

続々と俺の家へ皆が集まってくる。トランシーバーは重いがパーワーのある大型の物を用意した。俺はKスポーツでオーバーシューズと二重のウインドヤッケを新調した。五月の雪は濡れやすいので装備に気を配ったのだ。

女房は台所でせっせとペミカンを作っている。ひき肉と、みじんに切った玉葱を、ラードでいためたもので、これに卵を入れれば玉子井、カレー粉を入れるだけでカレーライス、味噌汁に入れれば、豚汁になるという、迅速に行動するには便利な食料だ。

出発は夜行と決めて、てんやわんやとやっていると、なんと!下山した、と、連絡が入ったのだ。俺はトイレに駆け込んだ。トイレットペーバーで拭いても拭いても、目から水がでてくるのだった。